「八紘之基柱」は中日統一王朝樹立を記念した「バベルの塔」

宮崎県宮崎市の平和台公園にある「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」の現在の名称は「平和の塔」であり、神武天皇即位2600年を記念し、昭和15年(1940年)に建設されている。しかし、よくよく考えてみると、神武天皇が即位した年は考古学的には4世紀の古墳時代であり、即位した場所は奈良県の橿原宮であって、宮崎市は即位の記念塔を建立するには不適切な場所であることが分かる。それを承知で、なぜ国や宮崎県が、「八紘一宇の精神を体現した日本一の塔」を宮崎市に建設したのであろうか。

その理由は、古墳時代初頭(230年と280年)に、計3万の呉の水軍が九州・宮崎県の日向にやって来たという私の持論が史実であることに他ならないからである。呉の水軍の渡来が真実であるからこそ、日本軍が中華民国の首都・南京を占領した南京戦(1937年)の翌年に、本来の設置者であるはずの国ではなく宮崎県によって塔の建設が計画され、建設時には陸軍が通達を出して、神武の征服地と関係のない満州や台湾などの中国全土からも石が集められ、それらを塔の基壇に配置したからである。

「八紘之基柱」は、「神武天皇即位の記念碑」でもなければ「平和の塔」でもなく、かつての「呉の首都・建業」から倭国に渡海した呉の武人の末裔が、南京戦の勝利によって母国中国大陸奪還の悲願を成し遂げたという、事実上の「中日統一王朝樹立を記念する塔」であったのだ。

そして、「八紘之基柱」の完成を見た日本軍は、翌年(1941年)にハワイを急襲し、版図を南方へと急速に拡大したのである。しかし、国力に格段の差があるアメリカに、日本が到底勝てる訳がなく、敗戦濃厚となった4年後(1945年)に、アメリカに渡ったダビデの末裔たちが開発した原子爆弾の圧倒的な威力を思い知らされ、本土決戦を辞さず国体護持を主張した皇軍は哀れひれ伏したのである。わずか8年間の短期間であったが、中日統一王朝であった大日本帝国は、アメリカ合衆国の属国となることで、戦争放棄を憲法の理念に加えた「平和国家日本」に生まれ変わることができたのである。

原子雲(広島)

それにしても、「八紘之基柱」のデザインを考案した彫刻家は、7年後の広島原爆投下を予知していたとは思えないが、私が感じたところの「八紘之基柱」のモチーフは、「天にそびえ立つ1本の巨大な柱」という、軍都広島に投下された原子爆弾で生じた原子雲であり、幻に終わった中日統一王朝樹立を記念した「バベルの塔」なのであった。

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