沼津市長宛手紙(第2回目)

拝啓 沼津市長様

高尾山古墳に関する専門家による協議会は、順調に進められておりますでしょうか。

私も、呉の将軍の墳墓だという自説を強化するために調査を続けてきましたが、いくつかの事実が新たに浮上し、被葬者が「諸葛直」だと確信するに至りました。

その根拠を要約すると、

1. 呉書に書かれた派遣将軍「諸葛直」は、帰国後誅殺されたとあるが、事実は違っていた。また、古代の伊豆にも葛城氏という、古代中国の葛一族と思しき強大な豪族が存在した。

2. 銅鏡の文字、“子・孫”が「子孫繁栄」ではなく、「天子孫権」、「孫黄帝の子」という意味を表す文字と解釈できる。

3. 沼津市が古代風水に基づいた都市であり、富士山と葛城山を通るライン上に高尾山古墳が存在する。

以上のとおりです。

さらに、上記根拠の詳細は下記のとおりとなります。

1 .「呉書」に、衛温、諸葛直が探索を行った翌年(231年)に「下獄誅(処刑)」と書かれているのだが、探索期間が1年というのはあまりにも短すぎる。病気や遭難事故で助かった一部の兵は帰国しただろうが、衛温、諸葛直は倭国に行き、仙薬探索の遂行よりも一国の支配者になることを望んだとするのが自然であろう。また、伊豆を含め、古代の日本に葛城姓や葛城山の名が残されている。これは、倭国が親魏であったため、諸葛将軍は魏の将軍として「葛羅魏(カツラギ):倭名」を名乗り、呉の水軍を魏の水軍に偽装し、戦わずして倭国に帰順した結果と思われる。諸葛直は、三国時代に魏、呉、蜀、それぞれの国に仕えた葛一族の一人であり、また、赤壁の戦いで有名な蜀の諸葛孔明も同族であるため、敵側に擬装する作戦を遂行したのは想像に難くない。ちなみに衛温の軍は岡山で「温羅(ユラ)」と呼ばれ、大和から派遣された将軍に掃討された大酒のみの愚将と推測される。

2. 銅鏡の「子、孫」の文字の意味ついて、銅鏡が将軍の命と引換えに黄帝から下賜されたものとすると、「子孫繁栄」と解釈するのは間違いとなる。銅鏡は姿見であるが、太陽光線を用いた通信・測量の器具でもあり、水戸黄門様の印籠と同様、呉の将軍を証する階級章でもある。子と孫の文字は、黄帝の「天子孫権」か、黄帝に忠誠を誓った将軍「孫黄帝の子(親分子分の子)」の意味のどちらかと思われる。よって、銅鏡の持ち主である高尾山古墳の被葬者は、呉の将軍と仮定すると、前述のとおり衛温が岡山で討取られているため、伊豆の葛城氏の祖と推測される諸葛直の可能性が大となる。

3. 平城京や平安京の造営に古代中国の風水が基礎になっているが、沼津市に関しても、メインストリートの北端にある小高い丘に神社を配する古代の都市の様相が感じられる。そこで、試しに日本の中心にある富士山と、葛城山の山頂を結ぶライン上の神社を探ったところ、なんと高尾山古墳上の2つの神社がヒットしたのである。わずかにずれたが愛鷹山の位牌岳、香貫山の寺もそのライン上にある。古代の測量技術、中国の風水を熟知した都市計画の指導者は、やはり諸葛孔明と時代を共にした諸葛直ということになろう。

私の「日本の葛城氏が中国の諸葛氏と同族」という仮説を唱える者は少数かもしれませんが、「富士山と葛城山のライン上に高尾山古墳が存在する」という事実は誰も否定できません。古墳の被葬者が葛城氏と関係していることを暗示しています。これを私は「カツラギコード(葛城氏の暗号)」と命名したい。どうか、目先の、一部の土地権利者の利益にとらわれず、そして中国の考古学界を加え、高尾山古墳についての議論をお願いします。

敬具

平成27年7月21日付け

*文中の将軍・衛温については討ち取られたと推測したが、現時点では年代のずれが見られ確証が得られていない。

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