沼津市長宛手紙(第1回目)

拝啓 雨に萌ゆる緑が風情を漂わせる季節、栗原市長様にはお健やかにご活躍のこととお喜び申し上げます。

さて、明治維新後に沼津市に入植した祖先を持つ私としては、このたびの高尾山古墳報道に接し、沼津市文化財行政の対応に大変危惧を抱いております。

結論から申し上げれば、高尾山古墳は、鉄製の槍や舟形木棺、水銀朱、勾玉、中国産銅鏡など科学的な根拠を包蔵する国指定の重要文化財になり得る遺跡であり、混沌とした卑弥呼の時代の全容を明らかにするものと確信しております。

根拠としては、西暦230年に呉の皇帝孫権が、武装兵10,000人を夷州(台湾)、亶州(日本)へ探索に行かせたと『三国志』「呉書」に記されていることです。

派遣の目的が仙薬の入手にあるため、日本の弥生時代初頭に文明をもたらした徐福の末裔の住む国のひとつ、富士山周辺や信州方面にも探索に向かったはずです。亶州の探索地の一つである富士山周辺には、大船団が停泊できる黄瀬川河口があり、西岸にベースキャンプを設営して、富士吉田ルートで北上したと考えられます。

夷州を先に探索したならば、熱帯特有の疫病も加わり多数の死傷者が出て、亶州探索時にはかなり過酷で長期にわたる任務となっていたでしょう。富士山方面の探索で病死か戦死した水軍の武将がいたとすれば、新たな支配者の権威の象徴として、高台で大規模な墳墓に埋葬したはずであり、これが高尾山古墳という特異な墳墓が西暦250年頃に突如出現した理由となります。

探索の結果、不老不死の仙薬を見つけることができず、現地の弥生人を数千人連れ帰ったと「呉書」に書かれています。その後、呉の滅亡直前の西暦280年に、再び呉の水軍20,000人が大船団で日本にやってきて、魏の水軍と偽り、国譲りを強要します。これが天孫(天子である孫権)降臨の真実です。この神武東征については、10年前に読んだ「竹田昌暉」著、『「神武」は呉からやって来た』に詳しく書かれています。

戦後、沼津市は焼け野原から整然と都市計画道路を建設してきました。今回高尾山古墳を保存するために都市計画道路を1本、やり直すぐらいはたやすいはずです。それがどうしても不可能ならば、刀や槍の波紋の確認や成分分析など科学的調査を行い、銅鏡も含め中国での製造場所、年代の調査などを行い、やるべきことをやり尽くしてからにしてください。どうか、日本史のみならず人類史を書き直すきっかけとなる高尾山古墳を、安易に消滅させないようお願い申し上げます。

ちなみに、明治に入植した私の祖先の名前は、旗本○○○○○の子、○○○○と後に結婚した妻○○(○○○○の妹)です。沼津藩士が埋葬されている乗運寺に墓石があります。市長様となんらかの繋がりがありますでしょうか?これもまた、沼津の歴史です。

敬具

平成27年6月28日付け

 

*これは高尾山古墳の保存を沼津市長にお願いした手紙です。この時点では、夷州を台湾と考えていましたが、その後、古代日本の伊州として持論を展開しています。

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